第8回 土岐高山城戦国合戦まつり 2019

第8回 土岐高山城戦国合戦まつり 2019

日時 令和元年10月20日(日) 9時30分~16時

場所 土岐市土岐津町 南宮神社~高山公園

 

 

 土岐市土岐津町高山に残る高山城跡は清和天皇の臣籍として発祥した美濃源氏、土岐氏の居館を守備するため鎌倉時代に創建された城跡で、戦国時代には織田信長と武田信玄、勝頼親子との領土争いの古戦場となり激しい戦いが行われました。

  武田勝頼は天正2年に1万2千の軍勢で織田軍が守備をする高山城に撃を仕掛け、翌年の天正3年には長篠・設楽原の戦いで3万の織田、徳川連合軍と戦い敗退しました。古式砲術の流儀を保存継承している長篠・設楽原鉄砲隊による火縄銃の流儀の公開を通して、高山城でも使用されたと考えられる古式砲術の公開と知識の普及啓発を行います。ふるさとの歴史を学び次世代に継承するとともに、観光交流人口の増加を図り賑わいを創出することを目的に、土岐市ならびに土岐市観光協会の支援を受け「第8回土岐高山城戦国合戦まつり」を開催します。

 

 特に今回はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放送に先駆けて、国を憂い愛に生きた明智光秀をテーマとした新作演武「桔梗」を土岐高山城戦国武将隊が発表します。

 ご期待下さい。

 

 

こちらからチラシ(表面)をダウンロードできます
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こちらからチラシ(裏面)をダウンロードできます
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土岐高山城ってどんなお城なの?

 

美濃源氏発祥の地 土岐市

 

 平安時代、清和天皇の子孫の源国房は美濃国に勢力を伸ばし、その孫の源光信は土岐郡大富(土岐市)に大富館を建てました。この武士集団を「美濃源氏」と言います。文治五年(1189年)孫の源光衡は一日市場(瑞浪市)に館を構え土岐氏と呼ばれるようになりました。承久の乱(承久三年1221年)の年に土岐光衡の子土岐光行は浅野(土岐市)に館を移しましたが、この頃土岐氏の一族高山伊賀守秀頼が浅野館を見下ろす高台に砦を築いたのが土岐高山城の始まりと考えられています。その後光行の孫土岐頼貞は美濃国の守護に任命され高山城の守備範囲にある大富に館を構えました。土岐高山城は鎌倉から室町時代にかけ美濃国の領主となった土岐氏の居館を守る重要な役割を果たしました。

 

 頼貞の子頼遠は長森(岐阜市)に館を設け、その甥の頼康は革手(岐阜市)に城を設け美濃、尾張、伊勢の守護となり最盛期を迎え、以後13代頼芸まで220年間にわたり美濃国守護を歴任しました。

 

戦国時代 斎藤道三による下剋上と明智光秀

 

 天文21年(1552年)斎藤道三の下剋上により土岐氏末代の頼芸が追放されると美濃国一帯に戦乱の嵐が吹き荒れました。土岐高山城を創建した高山氏は5代続きましたがその後後継者が無く(濃州小里記)、土岐高山城は土岐明智氏の所領となっていました(美濃国諸旧記)。

 

同年(1552年)土岐明智氏当主の明智定明が弟の明智定衡に殺されるという内紛があり、その混乱に乗じて、御嵩城主の小栗信濃守が、土岐明智氏の所領であった土岐高山城を攻略しようとしました。その際、甲斐国の武田信玄の命を受けた平井頼母親子は恵那の遠山景行、小里光忠らの加勢を受け御嵩城を攻め落とし土岐高山城の城主となりました(濃州小里記)。

 

弘治2年(1556年)斎藤道三と子の義龍が起こした長良川の合戦では平井頼母親子は土岐一族として参戦し道三は義龍に敗れました(國島家文書・美濃国諸旧記)。勝利した義龍が明智光秀を追って明智城を攻めた明智城の戦いでは平井頼母親子は明智光秀と共に戦いましたが(前野家文書)明智城は落城し、光秀は朝倉義景を頼り越前に逃れその後織田信長に仕えました。

 

戦国時代 織田と武田の古戦場 

 

武田勢と織田勢が対峙する中、元亀3年(1572)の上村合戦において武田側に父光行を亡き者にされた平井頼母は織田信長の支援を受け土岐高山城を強固な要塞として整え、700名の兵によって武田軍の侵攻に備えました(美濃国諸旧記)。

 

 天正2年(1574年)甲斐の武田信玄の嫡男武田勝頼は1万2千の兵をもって「美濃攻め」を行い、土岐高山城において激しい合戦が繰り広げられました。この時の様子を再現したものが「土岐高山城戦国合戦まつり」です。武田勝頼は翌天正3年(1575)長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍と戦い敗退しました。

 

 天正8年(1580年)土岐高山城城主平井頼母の二女松姫は苗木の遠山友政(後の初代苗木藩藩主)に嫁ぎました。天正10年(1582年)、織田信長は美濃国の諸将はじめ3万の軍勢と共に高遠城を攻め落とし武田家を滅ぼしました(信長公記)。しかしその3ヵ月後に明智光秀による本能寺の変により信長は自害し、美濃国は再び戦乱の嵐に巻き込まれ平井頼母は天正13年(1585年)に没しました。

 

江戸時代 下街道高山宿として発展

 

土岐高山城一帯は慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の後徳川家康についた妻木家の所領となりましたが、元和元年(1615年)一国一城令により廃城、万治元年(1658年)妻木家の断絶により徳川幕府直轄の「天領」となり「下街道高山宿」として栄えました。元禄元年(1688)犠牲となった武将や農民を供養するために武田信玄の4代目の孫雲峰元沖の手により古城山慈光院が土岐高山城の登城口に開創され、明治末期になって古城山遍照閣(通称穴弘法)として人々に親しまれるようになりました。

  

もみじのライトアップ  1110日(土)~18日(日)に開催します

  

 穴弘法では平成14年(2002年)から毎年紅葉の季節に土岐里山の会により104体の石仏にローソクが灯され、もみじのライトアップが行われています。平成29年(2017年)から「竹あかり」も加わり神秘的な美しさに包まれます。