土岐高山城と下街道高山宿

※この動画は、Network2010様のHPより転載させていただきました。

多治見~土岐~瑞浪~恵那市の下街道マップ(GoogleMap/Network2010様作成)

1.土岐源氏の発祥の地 土岐市

 

 平安時代後期から鎌倉時代にかけて各地に広がった源氏、平氏の武士集団は源平の合戦を経て源頼朝は鎌倉に幕府を設けました。美濃に進出した美濃源氏は源国房や源光信が平安時代に大富館(土岐市泉)を構えた後、源光衡が一日市場館(瑞浪市)へ移り、嫡男光行が承久の乱(1221)の頃に浅野館(土岐市肥田)を建て孫の頼貞は再び大富に館を構え、京都の朝廷と鎌倉幕府の双方と深い関わりを持ちながら美濃国の統治に力を注ぎました。美濃国土岐郡に基盤を持った源光信は「土岐」を号し(尊卑文脈)、源光衡は土岐氏と呼称されるようになりました(吾妻鏡)。

 

 土岐高山城は光信の子頼義の二男であり光衡の従兄弟に当たる高山伊賀守秀頼により創建され(濃州小里記)、美濃国の中枢となった浅野、大富の土岐源氏の居館を守る要塞としての役割を果たしたと考えられます。室町幕府成立とともに光行の孫土岐頼貞が美濃国守護に任命されると、高山氏は土岐氏と共に室町幕府に仕えました(太平記)。

 

 土岐頼貞の子頼遠は居館を土岐郡大富から厚見郡(現在の岐阜市)長森に移し、その甥頼康は厚見郡川手に城を築き、美濃、尾張、伊勢三国の守護職となり、以後土岐氏は戦国時代を迎えるまで200年近く隆盛を誇りました。

 

2.戦国時代の土岐高山城

 

 土岐高山城を創建した高山氏は5代続きましたが後裔が無く(濃州小里記)、土岐高山城は土岐氏の一族土岐明智氏の所領となっっていました(美濃国諸旧記)。

 天文18年(1549)土岐明智氏の惣領であった明智定明は土岐を自領とし、遠山を弟定衡に、明智を光秀に分け与えたましたが、天文21年(1552)定明が定衡により暗殺されるという事件が起きました(明智物語)。これは土岐明智氏の領土を手中に収めようとした斎藤道三の策略であったとも言われています。この時定明の嫡男定政( 愛菊丸2歳) は母の実家の三河の菅沼家に逃れ、後に徳川家康に見出され沼田城( 群馬県)の城主となり「土岐氏」を名乗ることを許されました(土岐文書)。

 同年の天文21年(1552)、斎藤道三の下剋上により土岐氏末代の頼芸が追放されると、その混乱に乗じて、城主が絶えた土岐高山城を横領しようと御嵩の小栗信濃守が土岐高山城に約1000 名の軍勢を向けました。 土岐高山城の危機を知った恵那の遠山景行と娘婿である小里光忠は武田信玄から派遣された平井光行、頼母親子とともに約2000 の軍勢で小栗信濃守を攻め落とし、平井頼母親子は土岐高山城の城主となりました(濃州小里記)。

 

 元亀3年(1572)、武田信玄が東美濃に領土を拡大しようとして織田勢と対峙する中、上村合戦において武田側に父光行を亡き者にされた平井頼母は織田信長の支援を受け土岐高山城を強固な要塞として整え、700 名の兵によって武田軍の侵攻に備えました(美濃国諸旧記)。

 

 天正2年(1574)甲斐の武田信玄の嫡男勝頼は1万2千の兵をもって「美濃攻め」を行い、土岐高山城においても激しい合戦が繰り広げられました(甲陽軍鑑、美濃国諸旧記)。武田勝頼は翌天正3年(1575) 長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍と戦い敗退しました(信長公記)。

 

 天正8年(1580)土岐高山城城主平井頼母の二女松姫は苗木の遠山友政(後の初代苗木藩藩主)に嫁ぎました( 苗木遠山資料館所蔵文書)。

 

 天正10 年(1582)、織田信長は美濃国の諸将はじめ3万の軍勢と共に高遠城を攻め落とし武田家を滅ぼしました(信長公記)。しかしその3ヵ月後に明智光秀が起こした本能寺の変により信長は自害し、美濃国は再び戦乱の嵐に巻き込まれ、土岐高山城は金山の森長可に開城することとなりました(金山記)。平井頼母は天正13年(1585 年)に没し墓碑が恵那市明智町吉良見に残っています。

 

3.関ヶ原の合戦~江戸時代

 

 慶長5年(1600)土岐高山城一帯はの関ヶ原の合戦の際に徳川家康に属した妻木氏の所領となりましたが、元和元年(1615)一国一城令により廃城、万治元年(1658)妻木家の断絶により徳川幕府直轄の「天領」となり中山道槙ヶ根追分と尾張名古屋をつなぐ「下街道」の「高山宿」として栄えました。

 

 

 元禄元年(1688)、合戦で犠牲となった武士や農民を供養するために武田信玄の4代目の孫雲峰元冲の手により古城山慈光院(黄檗宗)が土岐高山城の登城口に開創されました。のちにこの地は「穴弘法」と呼ばれるようになり住民の信仰の場となりました。

4.江戸時代の下街道高山宿

下街道高山宿古地図(明治5年).pdf
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 江戸時代、下街道高山宿は恵那槙ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ中山道の脇街道の宿場町として発展しました。下街道は中山道よりも峠が少なく利便性が良いため、善光寺参り、御岳参り、伊勢神宮参りの人々が往来し、信州、美濃、尾張から出荷される荷物が牛馬によって輸送されました。

 

 高山は下街道十五里二日の行程の中間地点であったため馬継場、宿場町として栄えた。明治5年の高山村絵図に五人組十九組約百戸、宿屋が十数軒ほど記載されているので、使用人を含めて500人ほどの集落を形成していたものと思われます。

 

 中山道の各宿場は下街道の通行量が増えるのを懸念して寛永元年(1624)下街道通行停止の訴えを尾張藩奉行に申し出たのを始め、慶安四年(1651)、元禄二年(1689)、寛政八年(1796)などに再三同様の訴えを起こし、その都度下街道の通行規制が行われましたが、天領であった高山村の庄屋深萱惣助は江戸幕府笠松代官所に訴え高山宿の利権を守りました。この結果通行量は減らず人馬の往来はより盛んになったといいます。

 

5.明治時代以降~現代

 

 明治になると高山村に土岐郡役所が置かれ、下街道に沿って国鉄中央線、国道19号線、中央道のが整備され、地場産業の製陶業が盛んになり、多治見、土岐、瑞浪一体は文明開化と陶磁器産業により活性化されました。古城山慈光院は明治末期になって古城山遍照閣(真言宗)(通称穴弘法)として人々に親しまれるようになりました。

 

 平成28年(2016)土岐高山城跡一帯では 岐阜県により「土岐高山城跡の森」が整備され、自然体験教室が行われたり、春にはしだれ梅、桜、花桃が咲き誇り、「土岐高山城まつり」、市街地では陶器まつりが開催されています。夏には土岐川の花火大会、秋には「穴弘法」でもみじまつりが行われ多くの人々で賑わっ ています。穴弘法では平成14年(2002)から土岐里山の会により104体の石仏にローソクが灯され、「もみじと100地蔵のライトアップ」が行われています。平成29年(2017)から「竹あかり」も加わり神秘的な美しさに包まれます。

 

 地場産業として発展してきた陶磁器産業は平成2年(1990)頃からのバブルの崩壊を境にその勢いを次第に失いましたが、土岐市では土岐プレミアムアウトレット、イオンモール土岐などの大型商業施設が完成したり、伝統的な陶器の文化を守り、豊かな自然や豊富な歴史資源を活かしたまちづくりが進められています。

 

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